2021. 1. 7 (木) 何を成したかではなく、如何に快く過ごしたかである。 何を遺したかではない。遺ったものは過ごした結果の灰 である。そこに私はない。 どのような時を過ごしたかである。過ごした感覚、その ものが私である。 (よかひよかとき「日々を楽しく過ごす」より)