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   よかひよかとき エッセイの種 (最新順)

2013-01-01 (Tue)  あけましておめでとうございます

 

 本年もよろしくお願い申し上げます。 謹賀新年(花火:FLASH版)


2012-07-21 (Sat)  

 とことん事にハマる性質(たち)なので、賭け事には手を出さない。パチンコは学生を卒業するとき同時に卒業した。だから、今のパチンコがどんなものなのかは全く知らないのだが、やればついつい熱中してしまうだろうと思う。

  脳トレパチンコ (Java版) 脳トレパチンコ (FLASH版) ということで、パソコンで作ってみた。旧式のパチンコ台のような気もするが、なかなか楽しめる。ちょっと脳トレにもなる。まだまだ、工夫すれば楽しめる台がいろいろできるだろう。なにしろ金がいっさいいらないのがいい(儲かりもしないが.....)。

 私のパソコンは子どものお下がりで、もう購入後8年目になる旧式のものなのでちょっと複雑なことをさせると度々駄々をこねる。それをおだてすかしながら、ことしの暑い夏も、パチンコ台をいろいろ作って楽しく乗り切ろう。



2012-06-04 (Mon)  

 体調はすこぶるよいのだが、運動不足なので気分だけでも身体を動かしてみようかと思い、こんなものを作って遊んでいる。
  ゴルフゲーム (Java版) ゴルフゲーム (FLASH版)


2012-04-01 (Sun)  

 2年間の町内会・公民館の会計として、総会や役の引継ぎなど昨日までにすべて終えた。いままでも十分に楽しくかつ自由の身であったのだが、さらに悠々自適に過ごせそうだ。
 まだまだパソコンで作りたいものは尽きない。トランペットも自分らしい音が少し出せるようになった気がしておもしろくなってきた。ますます楽しみな新年度の始まりだ。

 学校で教えるものは学問である。一般に学問とは、事実、あるいは公理を土台にし、論理的に発展させ体系付けられたものである。すなわち事実、真理のみである。
 事実、真理にはそれ自体揺るぎない価値がある。しかしながら、人が平和に幸せに生き生きと生きていくために重要なことは、事実や真理のみではないことは明らかである。優れた学問に基づいて経済、科学、技術がどんなに進んでも、人は平和に幸せになれるわけではないことは、いまさら言うまでもない。より重要なことは、生きていく指針となるべきものである。
 生きていく指針こそが、自己を動かし人を動かし、ひいては優れた経済、科学、技術の発展をもたらし豊かな社会を作ることにもなり、そしてなにより、人が平和に幸せに生き生きと生きていくことの原動力になるのである。
 生きていく指針となるべきものを心に持つには、しっかりとした価値感が確立されていなければならない。ところが、価値感は学問にはなじまない。したがって、これは学校で教えるべきことではないとされる。価値の押しつけは確かに困る。
 事実や真理を厳しく楽しく追究する過程において、事実や真理という知識以外にも学生に伝えられる多くのものがある。これだけでも学校の存在理由は認められるのではあるが、最も重要なことを直接教えることは学校ではできない。このことは、もっと意識されてしかるべきだと思う。そして、価値の押しつけにならないような方法で何らかの善処策が講じられる要を思う。人が平和に幸せに生き生きと生きていくために。


2012-03-15 (Thu)  

 このところ食が進み、体重がちょっと増えてしまったのではないかと思っていたら、原因不明のひどい下痢に陥った。今日は体調も元通りに回復、食欲も戻ってきたのだが、下痢状態の3日間ほどは食欲減退、お蔭でこのスマートな体型が維持されている。

 私の身体には、体型維持制御が自動的に働くようなシステムが組み込まれているのだろうか。いずれにせよ家内に言わせれば、私の身体は 「お金が掛からない身体」 なのだそうだ。なぜなら、ズボンが穿(は)けなくなりそうなほど腰周りが太くなれば自動制御が働き、ズボンを新調する必要がない...からなのだそうだ。


2012-03-01 (Thu)  

 最近は、ポアンカレディスクの万華鏡 (Java版) (FLASH版) を作って楽しんでいる。ポアンカレディスクは、円内を同じような鳥の絵のタイルで埋め尽したエッシャーの絵などで用いられている。


2012-01-01 (Sun)  あけましておめでとうございます

 本年もよろしくお願い申し上げます。 謹賀新年(花火:FLASH版)


2011-12-01 (Thu)  

 最近は、トランプゲームの 「スピード」 (Java版) (FLASH版) を作って遊んでいる。やっているとだんだん素早くなり、レベルが上がるのはうれしい。ボケ防止になるといいのだが...。


2011-10-30 (Sun)  

 我が生誕の日。最近は こんなこと(FLASH版) をして遊んでいる。


2011-09-10 (Sat)  


  (e)とは俺のことなり
  ( )÷e とは君のことなり  
(よかひよかとき「声に出して読みたい数式詩集」より)

     (注釈(発音の仕方)  (e): かっこいー     ( )÷e: かっこわるいー)



2011-08-28 (Sun)  

 夏は暑いが、この暑さを忘れて過ごすには何かに熱中することである。2ヶ月あまり持続して熱中できるようなものでなくてはダメである。今夏は、「花札」がどうしておもしろいのかを考えて楽しく過ごした。

 「花札」は日本の伝統的カードゲームである。松桐坊主、猪鹿蝶、ニゾロなど種々の役をそろえて高得点を競うゲームだが、今でも人気がある。コンピュータを相手に戦う「花札」ゲーム Java版 FLASH版を、私も作ってウェブページに置いている。

 こんなパソコンゲームがあったらいいなー、と思って作り始めるのだが、作ること自体が何倍もおもしろく、できたパソコンゲームで自分が遊ぶことはあまりない。次のゲームを作ることに熱中してしまうからである。
 ところが、「花札」は自分でも時々やる。さすが、すたれずに今に残った古典的ゲームだけのことはあると思う。

 「花札」がおもしろいのは種々ある「役」のできる確率が良い塩梅(あんばい)になっているからであろうと、その確率を調べたり、相手に勝つためにはどのような戦法をとれば良いのかと思いを巡らしたりしていたら、あっと言う間に8月が終わろうとしている。
 結局、「花札」がおもしろい一番の理由は、どんなに自分が弱く相手が神様のように賢くても、どうにもならない運不運というものがあって、何も考えないような私でも神様を相手に度々勝てる、ということにあるのではないかと思う。「生きているだけで丸儲け」 というわけにはいかないかも知れないが、生きていれば最低30%の割合で勝てる。

    神様にも勝率70%の超えられない壁がある          (よかときの仮説)



2011-07-27 (Wed)  

 今日の収穫。野菜は作り主に似る、と(私によって)言われているが、トマトやナスの色つやといい、キュウリの真っ直ぐに育ったスタイルといい、なかなかに立派である。味は推して知るべし。





2011-07-20 (Wed)  

 我が野菜の現状はというと、ナスが3本、キュウリ3本、トマト5個、いずれもまだ幼少の折にて、やさしく見守っている。



 それにしても、土と水と空気と太陽から、よくもこんなものができるものだ。苗木を植えて放っておいたらこうなった。
 原理はなにも知らぬがこうしたらこうなるというだけで、パソコンでパズルやゲームを作ることは私の得意とするところだが、それでもある程度の仕組みは理解して工夫をしなくてはならぬ。一方、野菜の実が成るのはまったくもって自然任せ。ただ祈り感謝するしかない心境である。



2011-07-02 (Sat)  

 今日7月2日の正午が、今年1年の中間の瞬間、すなわち、折り返し時点。


2011-06-28 (Tue)  

 今日は午後から晴れ。夕刻、我が野菜の成長は如何に、とのぞき見れば、およそ25cmの見事なキュウリが1本できているではないか。


 即収穫。夕食にて家族皆で3切れづつ食すも、うまし。


2011-06-23 (Thu)  

 今日は晴れときどき曇り一時雨。我が野菜は、ますます元気。きゅうりのちっこいのが数個できて花が咲いた。葉っぱはところどころ虫に食われているが、それにはかまわず生い茂げる。


6月23日の様子


2011-06-13 (Mon)  

 先日までの梅雨はやみ、今日は晴れ。先月7日に植えた野菜は、何もしたわけではないのだが、いっきに大いに成長あそばした。


5月15日の様子

5月31日の様子

6月13日の様子


2011-06-09 (Thu)  

 パソコン内に作ったロボットが、向きを変えて自由に歩き回ることができるようになった。
 今度は、手を付けていろんな物をつかめるようにすると、さらにおもしろくなりそうだ...。
2速歩行ロボット



2011-06-01 (Wed)  

 先月7日に植えた野菜は、すこぶる健やかに成長している。いずれにも実(み)はもちろんまだ成ってはいないが、大きな2本のトマトの苗木は、すでに強烈なトマトの匂いを発している。


5月15日の様子

5月31日の様子


2011-05-28 (Sat)  

 リアルの世界は、やはり金がかかる。



 ということで、またまたバーチャルな世界に入り込んでしまった。先の足だけのロボットをパソコン内に作ってみた。
 これを動かすには、配線も電池も必要ないのだが、リアルの世界では不要な計算をしないと描けない。手間としてはかえって面倒だが、パソコン内でいろいろ試してみるのも大いに楽しめる。しばらく、これで遊んでみよう。



2011-05-22 (Sun)  

 ぎこちないが前進歩行成功。とりあえずの目標、達成。


 次は、私の得意とする生き方、後ろ向きに進むことに挑戦しよう。



2011-05-21 (Sat)  

 コンピュータプログラムや、電子工作は、習うより慣れろ、の精神でやらないと途中で挫折する。細かい理屈は後から自然に付いて来るもののようだ。


 というわけで、4つのサーボ(モーター)をマイコンで動かしたり止めたり、なんとかできるようになった。その原理はよく分からないが、とりあえずこうすればこうなるということさえ分かればなんとかなる。
 このサーボがロボットの二足になるわけだ。我がロボットの誕生は足から。その日は間近?



2011-05-20 (Fri)  

 (昨日のつづき)ということで、「野菜作り」を始めました。と言えるほどの野菜は育ててはいない。そうではなくて、「ロボット作り」を始めました。いや、正確には、「ロボット作りをやってみようか」と思い至った。

 が、まったくの初心者。何から始めたらよいのやらさっぱり分からない。とは言っても、出来合いのキットを買って、分けもわからずにただ組み立てて、はい動きました、ではつまらないだろう。パソコンでゲームやパズルを作るときのように、プログラムを自分で書き打ち込んでいくように、材料を買って来て設計や工作をしながら作らないと、ほんとうのおもしろさはないはずだ。

 まずは、本を1冊は買わねばなるまい。ということで、「二足歩行ロボット製作超入門」(浅草ギ研著)オーム社、を購入。超入門となっているが、詳しく原理や工作の仕方も書かれているようだ。
 ちらちら眺めてみるに、簡単な足だけの歩行ロボットを作るらしいのだが、材料や部品を電子部品店で揃えるのに、約15,000円。それに、ハンダゴテやドリル、テスターなどの幾つかの工具類が必要で、なんやかんやでそれらに約20,000円。さらに、機能を追加したり、将来的には自分だけのオリジナルロボットを作るには、まだまだ数万は必要。やはり、リアルは金がかかる。

 それにまったくの初心者。マイコンボードがどうの、RCサーボがどうのなどと言われて電子部品店に行って、必要な30いくつもの細かい部品を、無駄なく自分で選んで購入してくる自信はない。

 という経過をへて結局、設計、工作から始める計画は早くも断念。必要な部品がほぼそろってキットになっている「AT-WALKER」なるものを売っているようだ。さっそく購入することに決定。ネットで注文したら、翌日には手元には届いた。便利な世の中だ。


 手始めに、これをいじり倒して、電子工作というものにすこし慣れよう。それからだ。



2011-05-19 (Thu)  

 ゲームやパズル、あるいは花火や万華鏡のように眺めて楽しめるものなどなどを、パソコン内で作って楽しんできた。
 これを趣味にするとよいことは、インターネットができるパソコンが一台あれば、その他いっさいお金がかからないということである。
 私が作ってウェブページに載せているゲームやパズルなどは、Javaアプレットやswfファイル(FLASH)であるが、これらはすべて無料で作ることができる。用いる言語は、Java や ActionScript というものであるが、これらをコンパイルするソフトはすべて無料でダウンロードできるからだ。その他に用いている Perl という言語なども無料で使える。

 まったく何もわからない最初の時期には何をどう始めていいものやら分からなくて、それらに関する本を4,5冊買ったり、市販されているソフトを買ったりもしたように思うが、今にして思えば本やソフトなど買わなくても、あれこれネットで調べればなんとかなるものだった。

 というわけで、金を持たない私でも、欲しい野球ゲーム、ラジコン飛行機、熱帯魚、オルゴールなどなどをパソコンの中に自由に作って遊んで来れた。まったくもって金のかからない私好みの楽しい過ごし方なのだ。

 ところが、パソコンの中でのことはパソコンの中でのことでしかない。ヴァーチャルである。いや、何かが抜けている。真にヴァーチャルとは言えない。本質の内のひとつが満たされていない仮想世界でしかない、と思うようになった。
 ということで、...明日につづくかな?



2011-05-15 (Sun)  

 苗木を植えて8日目。順調に成長の御様子。ちょいと水やり、今日の充実した生産的労働おしまい。
 それにしても、水や肥料や支柱など、人の手を借りないと実を付けられない植物というものは、なさけない気がする。自立して生きる力をもった野菜になることを切に望む。そうでないと、やがて現れるであろうたくましい雑草に勝てないぞ。


左隅の白いものは、毎月15日にグランマが魔よけに盛る塩。その御蔭かどうかは知らないが、順調...。
 ただ、自然(神)の力には逆らえぬもの…らしい。



2011-05-12 (Thu)  

 畳半畳に5本の苗木を植えたのだが、やるべき仕事は、虫が付いたら即駆除することである。できたら、付く虫を食べる天敵の虫を雇いたい。ただ、なにしろ5本しかないのだから、その天敵の虫君もかなり暇であろうし、腹も満たされないであろう。


2011-05-11 (Wed)  

 今日も1日中雨。畑仕事はできず。といっても畳半畳の敷地なので、なにもすることなぞないのだが。ということで、昨日図書館で借りてきた本を読む。絵に描いたような理想的な晴耕雨読の生活を実践。



2011-05-10 (Tue)  

 食材買い出し担当の爺ちゃんが言うには、ナス4本を100円で売っていたとのこと。はー、そんなもんですか。ということは、先日購入したナスの苗木は、確か188円だったから、これから少なくとも8本の立派なやつを収穫せねば元は取れぬということだ。頑張れ太陽。



2011-05-07 (Sat)  ミニ菜園始めました

 普段ほとんど運動をしない生活をしている。する必然性がないからなのだが、やはり身体は適度に動かしたほうが体は軽いし調子もよいのは分かっている。そこで、野菜でも作ってみたら身体を動かす必然性が生じるだろう、ということで、庭の片隅に、私専用の半畳ほどの畑(?)を作ってもらった。自分で野菜を育てたことなどいっさいないのだが、苗木を買ってきて植えておけば、自然の恵みでなんとかなるだろう。さっそく自転車をよいこらよいこら漕いで買いに行ってきた。確かに運動にはなる。


 遠慮がちに、中長ナス、節成キュウリ、パプリカイエロー各1本、それにトマト桃太郎2本の苗木を購入、計900円。高いのか安いのか見当もつかない。


奥の隅の一角が私専用の畑

 早速、植え付けた。人生初の記念すべき生産的労働であった。




2011-01-01 (Sat)  あけましておめでとうございます

 



2010-10-04 (Mon)  「右脳分室入室問題集」 より

 どんなに困難な状況になってもけっして諦めない主人公が活躍するアクション映画では、けっして主人公が死ぬことはない。それがわかっていても、ハラハラドキドキするように作られてはいるのだが、結末はハッピーエンドに決まっている。野球やサッカーなどのスポーツを、その結果を知ってから録画でみるのでは面白さがほとんどない。アクション映画でも、ハッピーエンドである確率をスポーツの勝率程度にしてみてはどうだろうか。

 問.アクション映画の結末をハッピーエンドにした方がよい理由を述べよ。
(よかひよかとき「右脳分室入室問題集」 より)



2010-10-03 (Sun)  「右脳分室入室問題集」 より

 テレビで洋画をみていたら、臨時ニュースのテロップが表示され、地震の情報が出た。みていたのは2、3日前に録画したものだったことに気が付いて安心したのであるが、突然の臨時ニュースの表示にはびっくりさせられる。
 臨時ニュースを知らせる音は録画には入っていなかったのであるが、自分の選択で、番組放映中に臨時に別枠で表示されるテロップや台風情報などの画像の方も録画されないようにできないものだろうか。

 問.テレビ番組放映中に臨時に別枠で表示されるテロップや台風情報などの画像を録画されないようにするべきではない理由を述べよ。
(よかひよかとき「右脳分室入室問題集」 より)


2010-09-26 (Sun)  「語録集」より

 過ごしやすい時節になった。

 やる気が起きなかったのを暑さのせいにしていた人々は、この時節になるとバリバリやっているかというと、そんなことはないはずだ。眠気に襲われて居眠りをしているに違いない。今は何をするにもいい季節だということは、うとうと居眠りするのにもいい季節なのだ。いままでは暑くて居眠りさえできなかっただけだ。

 没頭するほどに楽しめることは、暑かろうが寒かろうが関係なく楽しめる。
(よかひよかとき「語録集」より)


2010-09-05 (Sun)  「虚言集」より

 すべての生物は、とにかく命を引き継ぐことを第一として生きているように思う。しかしながら、...

 たとえば、私の頭に生えている数少ない毛。これらの毛は私に生えているのだが、私そのものではない、むしろ私とは別の私に寄生、いや私と共生している生物のように思える。
 この毛も、自らの命を引き継ぐことを第一としている生物なのだろうか。それとも、自分のことより、私の命を引き継ぐことを第一に考えていてくれるのだろうか。
 私の命を引き継ぐことを第一に考えてくれているなら、何故このように数を減らしたのだろう。もっとおおぜいで私の命を引き継ぐことに努力してくれてもよかろう。

 それとも、もはや私の命を引き継ぐことの意義を見い出せなくなったのだろうか。
(よかひよかとき「虚言集」より)


2010-09-01 (Wed)  こんな暑い日は

 今日から9月だと言うのに気温が37℃もある。体温より高い。

 寒い夜は、互いに抱き合おう 互いの体温で暖かいから
 暑い日は、互いに抱き合おう 互いの体温で涼しいから

(よかひよかとき「そんなあほな集」より)


2010-08-24 (Tue)  暑さを忘れて過ごす法

 5リットル と 3リットル を計れる2つのカップを用いて、4リットル の水を計り取るにはどうしたらよいか

というパズルがある。これは6手でできる。

 11リットル と 7リットル を計れる2つのカップを用いて、9リットルの水を計り取るにはどうしたらよいか

 これは16手の手間がかかるはずだ。

 残暑が厳しい。夜でさえクーラーを入れないと寝れない。このようなパズルを考えて過ごせば、この暑ささえ忘れることができる。 騙されたと思って挑戦されたし。 ただし、水分補給は十分に。 つい熱中して本当に熱中症になりかねない。

 計量パズル (Java版) (FLASH版)

 こんなパズルでも、いろいろ試行錯誤してハマってみれば、一般的なやり方というか、仕組みというか、原理のようなものが見えてくる。時間の浪費だが金がかからないからまあいいか、と思ってやり始めたとしてもそのうち、あくせく金を稼ぐ時間こそ時間の浪費だと思えてこないだろうか。こないか。


2010-06-24 (Thu)  よかときの見方

 年収何億円といっても、そのように金を稼ぐまじめな人は、それほど贅沢な生活をしたいとは思っていないだろう。稼いだ金はさらなる仕事のために使おうと思っているに違いない。その分は年収から差し引いてみてあげるべきだ。

 それはそうとして、どれだけ努力したかとか、上手にやったかということが年収で表わされていると考えては見苦しい。せめて、

   年収は、どれだけ人を元気にしたかを表わす   (よかときの見方)

と思うべきだ。
 それにしても、年間わずか180時間しか労働していない私は救われようがないのであるが、なぜか年収何億の人々よりも幸せに過ごしているような気がする。ただ、他人までをも元気にするだけの力はまったくないので、各自自分で元気になっていただきたい。


2010-06-01 (Tue)  よかときの原理

 こうして今に生き残っている生物が勝ち組であると思っているなら、それはお笑い草である。真の勝ち組はいち早く絶滅し、命を継ぐことに苦労などしたりはしない。

 ただし、何かを言うことができるのは、生き残ったものだけである。

 だから、命を継ぐことにキュウキュウとすることが幸せなことだ、と思わないと損だし、生き残った我々が勝ち組である、と言わないと損である。そうすれば、少しは生きる元気が出てくるというものだ。

   元気になる考え方、それが真理である    (よかときの原理)

 さて、このような主張の中に、どれほどの真理があるのだろう?


2010-05-19 (Wed)  よかときの法則

 やらなくてはならない事があっても、やろうという気力がないとできない。
 好きな事をやっているときは、好きではない事でもやれてしまうだけの活力が生じている。だから、やらなくてはならない事があるときは、とりあえずそれは置いといて、好きな事をやることにしている。そうすると、何でもやれる元気がでてくるので、やりたい事をやっている合い間に、やらなくてはならない事をやってしまう。

 一般に、クラブ活動などに燃えている学生の方が、何もしていない学生よりも学業の方でも成績がよいのは、好きな事を一所懸命にやることによって気持ちが活性化することが、大きな因である。

 このことをよく理解している私は、やらなくてはならない事があるときこそ、それは放っておいてやりたい事をやり始める。
 ただ私の場合問題なのは、やりたい事をやっている間は、やらなければならない事をやる合い間さえ惜しいほどに没頭してしまうことである。

   やる気 + 暇時間 = 一定        (よかときの法則)

 つまり、暇な時間ができれば、やる気は失せるということである。


2010-05-04 (Tue)  今日の排た句

 よく公園を散歩する。そこには大きな池があって、釣りをしている人が多い。釣った魚を持ち帰って食べるのが目的ではなく、釣ってもすぐに放している。釣りをしない私などは、何がおもしろいのだろうと思ったりするのだが、おそらく魚とのかけ引きがおもしろいのだろう。

 針のついた餌で魚を釣るのは、騙しである。なんにしても、騙すことがおもしろいのは理解できる。騙す相手が魚だからいいようなものの、もし相手が人間なら詐欺である。しかし、釣りをやらない私などは、騙すならやはり魚より他人を騙す方が数倍おもしろいだろにと思う。もし可能なら、他人を一切傷つけないで、できるなら感謝されるような、他人を騙すような趣味ができたらおもしろいだろうと思う。

   キャッチして リリースしたら 感謝され   (よかとき排た句)

 これはなかなかの高等技術を要する趣味である。他人を騙すことは容易だろうが、相手を少しでも傷つけるようでは、これをやる資格はない。感謝されて完結するまでの腕を磨かなければならないからである。

   ひま人に 釣られてやろうか ひまつぶし   (よかとき排た句)


2010-03-08 (Mon)  今日の排た句

 他人(ひと)は、月日が経つのは速い、歳をとるのは速い、子供の成長は速いなどと言う。これらは誰でも速く感じるものだ、ということくらい十分わかっているはずだと思うのだが、それでもそのように言う。
 私に言わせれば、そのように言う人は月日などが過ぎるのがどれくらい速いのかということを予想するのが甘すぎる、と思う。月日などが過ぎるのがどれくらい速いのかということさえも予想できないようでは、この世で楽しく過ごすことなど、とうていできないことだ。

   まだ三月 まだ月曜日 また楽し   (よかとき排た句)


2010-03-04 (Thu)  今日の排た句

 歳をとると、視力や聴力が衰え、見えていたものが見えなくなるし、聞こえていたものが聞こえなくなる。だが、歳をとると、いままで観えなかったものが観えるようになるし、聴こえなかったものが聴こえるようになる。五感以外の、何かそのようなものを観たり聴いたりできる感覚ができる。だから、歳をとるのが楽しみだ。
 と、よかひよかときによって言われている。

   オーラおら 何も観えぬぞ 聴こえぬぞ   (よかとき排た句)

 私もそれなりに歳をとったのだが、おかしいなと思っていたら、まだ、続きがあった。

 ただし、ぼおーと歳を重ねていたのでは、大したものは観えないし聴こえない、あるいは何も観えてこないし、聴こえてこない。どの道でもいい。行き着く先は同じところ。その道をまじめにたゆまなく歩み続け追い求めていなければならない。

 そういうことですか。
 ほんとですかー? 新手の詐欺ではないですか?


2010-03-02 (Tue)  今日の排た句

   我がマシン 折り紙つきの チョースロー   (よかとき排た句)

と、次の画像
↓ 折り紙(川崎ローズ)     .

私のパソコン

のどちらがより私の心情を表わしているか、という試みである。どんなつまらないことでも、やってみよう。そうでもしないと、やることがない。たいていのことは、つまらないことだから、と思ってやってみた。

 といっても、いくらなんでもこれは九ダラない。いや八ダラないくらいか。

 ゲームやパズルのソフトをサクサク動くパソコンで作っては、閲覧している方々の多くのパソコンでは正常に動作しないだろう、あえて一昔前のパソコンを使い続けよう、という私の心情である。ということにしているが、本当は、私の思考速度には一昔前のパソコンがちょうど合っている、ということである。


2010-03-01 (Mon)  今日の排た句

 虹の色は連続的に変化している。7色なんていうものではない。色は無限にある。だけど、もはや私には7色にしか見えない。分類しないととらえることができない。
 もはや私の脳は、あるがままをあるがままに受け取ることができない。適当に、これはここに、あれはそこに、というように分けてはじめて分かった気になる。そうしないと分かった気がしない。

 虹は虹 いやあれはあれ あれでなし

 虹は虹として眺めたい。いや、虹というものに分類する必要もない。あれはあれだ。いや、あれだと思うこともやめた。

 分類が上手にできる脳が、物分りがよい脳、優れた脳、ということに人間の脳がしている。脳は、ものごとを分類しないと処理、保管することができないからだ。脳の我田引水である。
 そろそろ脳も気づきはじめていいのではなかろうか。分けることの単純さ、分かることの狭窄さ、分けることのおかしさ、分かることの横柄さに。

 分からない 分けられないよ 分かるなよ   (よかとき排た句)

 これは俳句ではないし、詩でもないし、つぶやきでもないし、俺には分からんなー、と分からないことを自慢する脳になりたや。


2010-02-27 (Sat)  今日の排た句

   梅一輪 いちりんほどの 暖かさ   (服部嵐雪)

   梅が一輪ずつ咲くごとに 暖かくなっていくよ

 同じことを言っているようでありながら、全然ちがう。後者はただ事実を述べているだけなのに対して、前者は心情を表わしている。

 という風に思われる。私もそう思う。この違いがどこからくるのか、ということもなんとなく分かる。

 しかし、それは世間でそう言われているからそう思うのであって、後者からも心情を感じ取ろうとして読めば読めないことはない。つまり、詠み手の表現の違いではなく、読み手の感性の問題である。と(無理やり)思ってみる。
 そうすると、後者は型にはまらない素直な味のある句ではないか、と思えてこないだろうか(無理か?)

   近しい人が いなくなって 過ごす夜の なんと不思議なことだろう

 これは句ではない、ただ事を述べているだけだ。と思われる向きもあろうが、心情を詠んだつもりなのだ。

   つい十日 この世あの世の 摩訶不思議   (よかとき排た句)

 いずれにしても、私の才では句にならず。


2010-02-26 (Fri)  今日の排た句

 統計によると、私の平均余命はおよそ28年。なにごとも慎重に慎重を期した先送りの私の人生設計の通りにいくなら、さらに伸びることが期待できる。
 これからの毎日、20分のトランペットの練習を欠かさなければ、プロ並みの腕になれる。こりゃ楽しみだ。

   トラ年に ペットを始め ほらふくぞ   (よかとき排た句)


(自作ミュート1、2号。前面には不要のCDを円形に切って使用。筒の長さや、穴の大きさで音量が変わる。)

 自動車の警笛ほどの音量がでる。隣近所に迷惑なので、6千円出してミュートを買ったが、これがなんで6千円もするねん? 確かに隣室で寝ている人でも起こさないほどに音が出ないが、これでは練習としてはおもしろくないし、息抜けもいまひとつ。練習用としては全く使い物にならない。
 トイレの芯の筒と不要のCDをちょいと加工して自作したら、これがなんとも調子いい。自作に限る。


2010-02-24 (Wed)  今日の排た句

 どんなに痛がっても、苦しんでも、死んでしまえば、痛みも苦しみも何も感じなくなると思うのだが、痛がったことや苦しんだことの、その本人にとっての意味することは何でしょう?

 この問に納得できる回答ができなければ

   それを言っちゃあおしまいよ と言っちゃいましょう (よかとき排た句)

 なぜか、納得できるような気分になれます。「死」より「おしまい」の持つ力の強さです。


2010-02-23 (Tue)  今日の排た句

 AとBの二人だけの世界があるとする。
 Aが衣類を作って、Bに売る。Bは衣類を受け取り、それに見合った金をAに払う。
 Bは、お蔭でこの寒い冬を暖かく過ごしている。
 Aは、この金を使ってBから何かを買いたいと思うのだが、Bには売るものは何も無い。

 あなたは、AとBのどちらでありたいだろうか?

 金を持っているということは、それだけ分の労働の対価を、まだ受けていないということ。
 金を持っているということは、それだけ分、他の人を快適にしてあげている、ということ。

   金持ちは ひょとして いい人かしらん?   (よかとき排た句)


2010-02-22 (Mon)  今日の排た句

 気づかぬうちにボールペンを落として無くした。電話番号の記入ミスをした。文字の打ち間違いを確認したつもりなのに誤りを見落としていた。昨日の私のやってしまったミスである。他にも幾つかのミスをしているだろうが、私は知らない。

 若い頃にも、ミスはたびたびやらかしたが、誰かに指摘されるまえに、確認作業の段階で自分で気づいていたように思う。だから、ミスをするのはそう大した問題ではなかった。
 そのうち、ミスを犯したことに、自分で気がつかないようになった。それは、知らぬ間に視力が落ちたり、注意力が落ちたりしていたためだ。そのことに自分が気づいていなかったせいだ。
 原因がわかってからは、念を入れて確認するようした。それで何とかなった。ところが念を入れても、それでもミスをするようになってしまった。どうしようもない。

   自信あり ミスをしている はずである   (よかとき排た句)

 もはや、開き直るしかないではないか。
 まあこうして生きているからには、生命に関わるほどのミスはまだ犯してはいないのだろう。


2010-02-20 (Sat)  今日の排た句

 パソコンを使い易くすることにのみ関心があり情熱を燃やす。その使い易くしたパソコンで何がしたいというわけではなく、誰よりもパソコンを使いやすく設定することが楽しい。そういう人がいる。
 お金を多く稼ぐことにのみ関心があり情熱を燃やす。その稼いだ金で何がしたいというわけではなく、誰よりも多くお金を稼ぐことが楽しい。そういう人がいる。
 学問のみに関心があり情熱を燃やす。修得した学問で何がしたいというわけではなく、誰も知らない新しいことを知りたいと思い、それを追求することが楽しい。そういう人がいる。
 社会をよくすることにのみに関心があり情熱を燃やす。よくした社会で何がしたいというわけではなく、どこよりもよい社会にすることを求め、そのために活動することが楽しい。そういう人がいる。

 長生きをすることのみに関心があり情熱を燃やす。長生きして何がしたいというわけではなく、ただ長生きをしなければならないような気がするし、それが楽しいことのような気がする。そういう人がいる。私だ。

   長生きを するにはするが なに想う   (よかとき排た句)


2010-02-19 (Fri)  今日の排た句

 数学的思考(?)エッセイの 「普遍性をつかむ能力」で行っているアンケート、『世間の常識−毛が何本以下を禿げとする人数の割合』を、久々に覗いてみた。

 回答者340人中、200人くらいの方が、この程度から禿げとみなす、というありがたい結果が得られていた。

   常識を やはりと思う 常識人      (よかとき排た句)


2010-02-18 (Thu)  今日の排た句

   えーんー あーはー おーほぉー      (よかとき排た句)

 坊や 「この人はなんと言っているの?」
 母親 「なんといっているかはわからないけれど、何かを言おうとしていることはわかるだろ。」
 坊や 「うん。生きているのは確かだね。」

 「よかとき排句」 は、自分で排いて勝手に楽しむものなのだから、どうあってもいい。しかし、この句も、最初は

   えーうー あーんー おーほー

として浮かんだのだが、それを熟考のすえ、上のように改変したのである。
 私としては、最初の句より、ずいぶんよくなったと思っている。


2010-02-17 (Wed)  今日の排た句

 ルーズリーフのノートの一頁がひと月分で、その一行が一日分として、記憶ノートを、2005年3月から付けている。かなり適当でいい加減なものである。だが、何も付けていなかったら、何も思い出せない。それでは私の人生が無かったも同然のような気がする。それはそれでもいっこうに構わないのだが、このようなものでも、昨年の今頃はなにがあったとか、どうしていたとかを眺めながら思い出して楽しめる。他のへたな娯楽より、人生をより楽しめる、自分だけの金のかからない有効な方法である。

   昨年も 一昨年も このときも   (よかとき排た句)

 ところが、ノートを見返してみたら、なんということはない。昨年も、一昨年も、今日と同じ平穏な時を過ごしている。これはこれで、ここちよい気持ちになる。


2010-02-16 (Tue)  今日の排た句

 1998年11月〜2003年4月の約4年半、週2、3日はジョギングをやっていた。走っている時は、自分の体調はもちろん、脈拍数なども大体分かるようになる。また自分の気持ちをコントロールしながら走ることもできるようになる。それがジョギングのひとつの面白みでもあった。

 それと同じように、日々、あったこと、思ったこと、感じたことなどを書き留めることを習慣にすれば、その時々の自分の知性や感情の状態を客観的に観ることができるようになるだろう。さらには、自分の気持ちや感情までをも、ある程度はコントロールできるようになるのではなかろうか。

 ということで、使わないで何冊かたまっている、もらいものの昔の手帳のなかの1冊を常に持ち歩くことにしてみようと思う。

   2003年度 職場の手帳 持ち歩く    (よかとき排た句)

 この年は入院していた年らしく、まっさらな手帳で、いっぱい書き込める。


2010-02-15 (Mon)  今日の排た句

 歳とってボケないために、日記を付けるのが有効な方法のひとつであるという。毎日、一番嬉しかったことを一行づつ書いていくだけでいいという。

 では私もと思って、一昨日、昨日と振り返ってみたら、

 一昨日: 今日は、ウンチがすんなり出て嬉しかった
  昨日: 今日も、ウンチがなんとか出て嬉しかった

というふうになった。

 妻は笑うが、このような毎日を過ごしている人のなんと充実した日々であろう、と感嘆してくれる卓越した方が多いことを望む。だが、このような日記が、ひとつの文化として評価されるほどには、妻も人類もまだ進化してはいない。

   目の前を 嬉しさ超えて 時が行く  (よかとき排た句)


2010-02-14 (Sun)  「俳句」ならぬ「排句」

   スーパーで 買い物すれば 計合わず   (よかとき排た句)

 「3980円いただきます」
 「あれ? これは消費税込みで3千円じゃあなかったですかねー?」
 「そうです。 お買い上げはこれひとつだけですから、確かにおかしいですね? あれ、この980円は何だろう? タマ? いや アタマ になっているけど?」
 「アタマ? そりゃ何ですか? そんなものは買ってないですよ」

 レジのおばさんの差し出したレシートをよく見ようと、近眼メガネをはずし身を乗り出したら、また「ピッ!」と音がして、お買い上げ980円のレシートがレジ機から吐き出されてきた。

 「あ! すいません、お客さん、レジ機に近づけないでください! わかりました。 すいません、3千円でいいです。」
 あわてた顔でおばさんが、私を押しのけようとする。

 帰り道つらつら思ったことは、こういう場合は、近づけないで、ではなくて、近づかないで、と言うべきだろうになー、ということである。

   安すぎる 私の頭は バーコード        (よかとき排た句)


2010-02-13 (Sat)  「俳句」ならぬ「排句」

   生きている 証に今日も 排(は)いて居り    (よかとき排句)

 体調が悪くて食べたものを排いている、という意味ではけっしてない。

 ブログとか、ツイッターとかいうものが流行っている。これらは、ほぼ毎日何かが更新されていないと、体調でもくずされたのではなかろうかと、赤の他人であっても気になるのが人情というものである。
 しかしながら、たとえば親の介護に明け暮れる苦難の日々であったとしても、わざわざ書き留めておくべきことがそうそう毎日あるわけではないだろうことは容易に想像できる。日常のなにげないことでも、それなりのエッセイに仕立てることができるような本職の物書きでも、何も思い浮かばないこともあるだろう。ましてや私のように、幸せで平穏な日々の繰り返しで、しかもなんの観察力も文才も持たない者にとっては、いくら気楽に何を書いてもいいと言っても、毎日毎日、今日も元気で飯がうまい、とばかり書くわけにもいかない。だから、一日も休むこともなく日に三度も飯を食い続けることができる私でも、毎日更新し続けるのは至難の業だ。

 そこで、このような私にでもできるだろうと考えたのが、「俳句」ならぬ「排句」である。ハイクはハイクでも、ただ口から言葉をハケば何でも「排句」である。 だから、季語のようなものは必要ではなく、五七五ですらなくても構わない。自分でハいたものであること、それだけを決まりとする句である。ただ、全く自由だとすると却って難しいのが常であるから、五七五を基本として、指を折りながらハクのがコツである。

 このようなものでも、ほぼ毎日続けてみれば、その人らしさが出て、誰が排いたものかがわかるものになるだろうと思う。

 今日は記念に、もう一句。

 口排けば 下(しも)も負けじと お供(音も)する    (よかとき排句)

 ん? におうか? このように排句には、音響効果も、香りさえも付けられる。


2010-02-12 (Fri)  日々これ楽しい修行

 身体A、身体B、身体C、… があって、 魂1、魂2、魂3、… があって、魂1がどの身体を選ぶかによって、私ができている、とは考えにくい。
 ひとつの身体ができたために、同時にひとつの魂ができ、気がついたら私であった、と考えたい。

 そのようにして私はできたのだろう。 そうだとすると、私があなたであるはずはなく、あなたが私であるはずもない。 私は私でしかあり得ない。 そして私以外のことすべては、私が想うことによってしか存在せぬものであるはずである。

 しかるに、善しにつけ悪しにつけ日々生じる多くのことは、私が想いもせぬことだらけであるのは、私が未熟なせいであろう。 すなわち、物心ついて私が私になったわけではなく、この歳にしてまだまだ私には成っていない。 日々これすべて私に成るための修行であり楽しみだと思うことにしてみたら、なんだかすべてのことが嬉しい気分だ。

 パソコンでゲームやパズルを作ることは、作られたゲームやパズルで遊ぶことの何倍も楽しい。

 是すべて あの世とやらゑの わたし道 (よかひよかとき 「迷い唱集」 より)


2009-12-01 (Tue)  明細書

 私は非常に謙虚な人間だ。どれくらい謙虚かというと、たとえば、散歩道で犬とすれちがうとき、その犬が人間の歳にして私より上だと思えるなら目上として接し、道を譲ってしまうくらい謙虚だ。一緒に散歩している妻には、私が犬を怖がっているように見えるかも知れないが、言い訳がましいことを言うことはしない。ただ、謙虚さを客観的に数値で表わし履歴書に書き込めないのが残念だし、自分で謙虚であると言わないと誰もそう思ってくれないのは残念だとは思う。

 このような私が、最近思いついたことは次のようなことである。

 ちょっと街のレストランで食事をしたとする。経済感覚にも鋭い私は、これは内で妻が作ってくれるものに比して劣るとも勝らないにもかかわらず、どうしてこうも高いのか? 妻ならこの値段の何分の1かで作るだろう、と思う。
 ものごとは感情的にではなく、冷静に考えるようにも努めている私は、すぐにこれにはそれなりの理由があると気が付く。この料理の値段に含まれているものは、まず料理の材料費、光熱費がある。料理人や給仕の方の技術料や労賃がある。また、使われている食器類の減価償却分もあるだろう。この店の賃貸料、テーブルや掃除やメニューなど、準備や環境のための費用の一部も料金に加算されているだろう。他にもあるかも知らない。
 そこで、謙虚で経済感覚に鋭く冷静にものごとを考えたい私としては、料理の勘定書には、ただ料理の値段としてぽんとひとつ書くのではなく、その明細を書いてほしい、ということを思い付いた次第である。たまに私が行く病院の診断費領収書には、再診料、医学管理等、検査、画像診断、投薬、注射、処置、文書料、… などなど、こと細かに書かれていて、それを感心しながら眺めるのは、なかなか楽しい。だから、料理にもその明細がこと細かに書かれていたら、とても楽しみながら食事することができるように思うのだ。
(よかひよかとき 「無責任な思いつき話集」 より)


2009-10-29 (Thu)  物事は理屈ではない理屈

 自分の能力や実力とは全く関係なく、完全を期したい私である。完全を期せるだけの能力や実力の不足に加えて、そうは見えないかも知れないが、ちょっとした自分のミスにかなり落ち込む資質を持ち合わせている。その結果として、しばしば憂鬱な気分に耐えて生きてきた私である。このような資質は、よい仕事をするためには必要不可欠なものだと考えることで、せめてもの慰めとしてきた。それでよい仕事ができた、ということが一度でもあったというわけではないのは残念であるが。

 ちょっとした指の怪我は、放っておいても3日もすれば治る。この歳までたびたび落ち込む気分を味わえば、そのように落ち込んだ気分も、怪我とおなじで、長くても3日も経てばほぼ平穏になるものだ、ということが分かってくる。

 何もしないで3日過ぎればなんでもないことならば、ミスをしたその日だってなんでもないことなのだ。ということは、私の頭による思考法では真実としか考えられない。
 指の怪我の方は、3日後になんともなくなるものならば、今だって痛くも痒くもない、というわけにはいかない。3日間は痛みや不自由に耐えなければならない。気分の落ち込みの方も、物理的な痛みと同じようなメカニズムが働いているならば、憂鬱が治まるまでの3日間はとにかく耐えなくてはならないだろう。

 もしそうならば、私の頭で考えた真実は、りっぱに役に立たない語録集に入れることができるだろう

 「何もしないで3日過ぎればなんでもないことならば、ミスをしたその日だってなんでもないことだ」
(よかひよかとき 「役にたたない語録集」より)

 (「人生、理屈通りには行かないものだ」とか、「物事は理屈ではない」と言われることの理屈(仕掛け)は、ひょっとしてこのあたりにあるのかな?)



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